昨夜のことを思い出すと、胸くそはまだ悪い。

朝食で顔を合わせると、モリはいきなり「お金はあっていますか」と尋ねてきた。昨夜、金が足りないとははっきり言ってないのに、金のことを聞いてくるとは、やはりお前、やましいところがあるのかよ、という気にさせられる。「金が足りない」無愛想に答えると、モリはさらに「いくら足りない?」と聞いてくるので「22ドルだ」とさらに無愛想に答える。今回は銀行でドル札に換えてそのまま持ってきているので、紙幣の種類ごとの枚数まで分かっている。これまでの支出と照らしあわし、10ドル札2枚、1ドル札2枚がかっちり足りないのだ。「店にもう一度行きますか」と聞いてくるが、あんな狸おやじ、相手にするだけ時間の無駄だろうから「もう、いい」と答えておく。「でも、お客さんのトラブルは、私たちの会社にとっても……」。よく言うよ。もう思い出させるな。

この日はまずペルセポリスに行くのだが、その前に昨日残したナグシェ・ロスタム、ナグシェ・ラジャブ、2つの遺跡に行く。この日の運転手はタワコーリさん。50歳くらいか。運転はあまりうまそうではないが、対向車線に車の影が少しでも見えたら追い越しはかけないので安心していられる。割と大きな声で、絶えずよくしゃべっている。モリさんによると、このあたりの歴史・考古に詳しく、2つの遺跡とペルセポリスについて<教示>していたらしい。わざわざ私が2つの遺跡の見学を希望したというのを聞いて、うれしく思ってくれたのかどうか。本人も英語ガイドとしての資格はあるようだ。私が英語を聞き取るだけの能力があったならば、タワコーリさんの説明を直接聞くことができたわけだが。

ナグシェ・ロスタムは、幹線道路からちょっと入った山すそに、アケメネス朝のダレイオス1世ら4人の王墓が並んでいる(ダレイオス1世以外の墓には諸説あり、特定には至っていないそうだ)。これらの王墓は、パッサルガードのキュロス大王のようなピラミッド型ではなくて、崖が十字の形にくりぬかれている。墓が並ぶ崖の下のほうに、レリーフがいくつか。馬上のササン朝の王シャープール1世が東ローマ帝国を打ち負かし、その皇帝ヴァレリアヌスを捕虜としてのひざまずかせている「騎馬戦勝図」は傑作として有名で、この遺跡名「ロスタムの絵」の由来となっているらしい。崖の前にはゾロアスター教の神殿、そして車にちょっと乗って裏手には都市の遺構が残されている。ナグシェ・ラジャブはナグシェ・ロスタムから幹線道に戻ってきてすぐ道沿いにある。シャープール1世の戴冠ほか4つのレリーフが残されている。パッサルガードやぺルセポリスを含めたこのあたりが、古代世界に威を振るったアケメネス朝の発祥の地で、日本で言えば、まほろばの大和、ということになるらしい。

シラーズ方面に少し戻って、さていよいよペルセポリス遺跡。少し離れたところに車を止める。遺跡はちょっと小高いテラス状になっている。入り口近くで突然、3人組に話しかけられる。テヘランの大学の教授らだそうだ。遺跡をよく見て帰ってくれ、との言葉に自国文明と歴史への誇りが感じられる。

階段を上って遺跡に入ると、まずクセルクセス門。東西両ゲートに牡牛像、人面有翼獣神像がそれぞれ彫られ、高さ10メートルほどの円柱などが並んでいる。そのまま正面に進むと儀仗兵の通路で、その傍らに双頭鷲像。イラン航空のマークはこの像をモチーフにしているそうで、ああ、あの像か、なんとなく見たことあるわという印象深いもの。右に曲がって未完成の門。壁にはさまざまなレリーフがあり、そこいらにも動物の彫像などがあるが、これらは比較的見るほどのものでもないのか(ガイドブックに説明などがない)。百柱の間は後回しにして、左の道から山を登り、アルタクセルクセス2世の墓へ。ダレイオス1世の墓などと同じように、山肌を十字にくりぬいている。ここからは遺跡の全景が眺められる。坂を下りて再び百柱の間へ。広い空間に文字通り数十の柱の基壇跡が並んでいる。各国からの朝貢の使者はここでペルシャの大王に謁見するまでじっと待っていたのであろうか。東階段には、ペルシャが当時支配していた23の属国からの朝貢の様子がレリーフに精巧に描かれている。貢物は馬やら象牙やら貴金属やら作物やらそれぞれの地域の特色あふれたものさまざまで、肌が黒いように表現されたものもあって、当時の支配がアフリカまで及んでいることを示している。モリさんによれば、使者の順番や描かれている人間の大きさなどによって、属国の順位も示されているとのことだった。南に下がり中央宮殿(会議の間)。ここからハディーシュ(クセルクセス2世の宮殿)、タチャル(ダレイオス1世の宮殿)を経て、北に戻る感じで謁見の間へ。ここには高さ20メートルという柱が12本残っているということであるが、あいにく謁見の間から東階段のあたりにかけてこのときは仮設の屋根が設けられて遺跡の修繕作業が行われていて、柱が高さを競ってそびえているという実感はいまひとつ味わえなかった。

遺跡をめぐっていると、12月といえども暑いぐらい。シラーズに戻り、いったんタワコーリさんとは別れ、市内で昼食。ここ2、3日、羊肉などに辟易しているのが伝わっていたようで、モリさんは魚が食べられるレストランへ。魚のフライで油っぽく、まだやはり口に合わない(あまり贅沢を言う気はないが)。もう少しさっぱりしている感じが欲しいんだけど、異国の地では無理か。

午後から再びタワコーリさんの車で、シラーズ観光。タワコーリさんは「シラーズのことは任せろ。穴場に連れて行ってやる」という感じで、マスジェデ・ジャーメからナシル・アル・モルク・モスク(原音に忠実な表記はわからない。何しろ「地球の歩き方」には載っておらず、綴りを教えてもらっただけなので)へ。赤紫色のじゅうたんなど室内装飾がたいそう印象的で、中には<博物館>も。「知り合いが管理しているモスクだ」と言っていたが、たまたまいた入り口のおばちゃんにしつこく迫られ1人あたり入場料15000イラン・リアルを払わされていたが(ということで、それなりの名所のようだ。地元発行のガイド資料には載っていた。なぜ「地球の歩き方」には載ってないのかは不明)。次は、閑静な一角にあるシラーズ大学付属のナレンシェスタン博物館。絵画やら陶器やら何かいっぱいあったなあという感じ。さらに、内壁や天井が鏡張りのキンキラの建物に。あとで見る限り、どうやらシャー・チェラーグ廟らしい。タワコーリさんはとにかく、さっさと歩いては「さあ、写真を撮ってやる。そこに立て。1、2、3……」とせわしないので、いま自分がシラーズのどこにいるのか、なんという建物なのか、確認している暇がないほどだ。

次は郊外に向かってやや長めのドライブ。ついたところは軍事博物館ならびにアフィーフ・アーバード庭園のようだ。そろそろ夕刻で、入場時間も迫っていたよう。博物館の展示自体は銃器や武器などが主で、個人的にはほとんど興味がなかった。館内のチャイハーネで紅茶をいただく。そろそろ夕闇が迫ってきた。暗い中、市街地に戻り、川を渡ったりしたから、次に向かったのはエマームザーデイェ・アリー・エブネ・ハムゼ聖廟か。夕方の祈りのコーランが場内に響き渡っている。アリー・エブネ・ハムゼは、シャー・チェラーグの弟。と言っても、2人の知識を持ち合わせていない私には、そのありがたみが分かりようもないが。ここの廟は床の石に名前が書かれていて、ひとつひとつがそれぞれの墓になっているそうだ。コーランの響きとあわせ、どっぷりと暮れたなかに厳かさが感じられる。

ここを後にして、次はクルアン門へ。ヤズドからシラーズへ来た時、そしてぺルセポリスへの行き帰りと、この門を通るのはこれで4回目。幹線沿い、山が迫った峠のようになっていて、文字通りシラーズの玄関の象徴。車を止め、西側崖沿いにあるハージュー・ケルマーニー廟。イランを代表するハーフェズやサアディーに次いで、この人も有名な詩人らしい。廟には売店や展望所があって、ちょっとした市民の憩いの場のようだ。展望台から見る市街の眺めや、門を通る車の光の列など、高い技量を持っていたらすばらしい写真が撮れるのだとは思うが、あいにくさまとしか言いようがない。

このあとは空港に向かい、イスファハンへの移動。そういえばシラーズでは絶対の見所ハーフェズ廟やサアディー廟には行ってないような気がするが、まあ、それはそれで。時間があったのか、モリさんがタワコーリさんの事務所に伺って礼を述べ、そのあとモリさんの誘いで市内でも有数らしいデザート店に行くことになった。こぎれいでほとんど欧米と変わらないのではないかという構え。アイスクリームを食べたが、値段はいくらだったかな。店の周りには、客から小銭をもらおうとするいわゆるストリート・チルドレンもいて、物欲しげにこちらを見ている。ところで、デザートを食べているほんの数分の間に、タワコーリさんの車が駐禁切符を切られて100,000イランリアルの反則金を食らったのは本当に気の毒だった。デザート食べようと言い出したのはモリさんであって、私ではないからね。

さてペルセポリス・シラーズでの日程も終わり。タワコーリさんの案内はせわし過ぎてついていきづらいところもあったが、いろんなところを見せてもらえて本当にありがたかった。しかし……空港に向かう間、例によってタワコーリさんに渡すチップ7,000イランリアルをモリが用意しながらいった一言にいっぺんに不機嫌になった。「タワコーリさん、反則金食らってかわいそう。あなたも気の毒に思うのなら、このチップにもっと足して渡してあげて下さい」。ちょっと待て、てめえが今準備したチップだって、元の出どころは私の金じゃあねえか。気の毒に思うんだったら、あんたもいくらか負担してやりなよ、と言いたかった。今となっては何をそんなにカリカリしていたのかとも思うが、昨日の不誠実な態度のこともある。まるで7,000イランリアルは自分で出しているかのような態度にカチンと来たわけだ。もちろんタワコーリさんには10ドルを別に包んだが、彼としたら包みが別なわけだから、7,000イランリアルはモリもしくは彼の旅行社からと理解するだろうねえ。空港についてから渡した封筒を、タワコーリさんはすぐに開いていた(こういう直截的な態度にも戸惑った)が、日本の旅行者からのチップの額をもうひとつの方と比べて(金額的には同じ)どう思ったか。私に日本的な慎みがなく、かつ、可能な語学力があれば「これは両方とも私からなのだ」と伝えたかった。

シラーズ発IR328便は20時55分発で、イスファハンまでの飛行時間は約1時間。ここでは空港からはタクシー。機嫌がすぐれないので(モリは、私がいったいなぜ不機嫌なのかが分からなかっただろうけど)、SADAFホテルについてすぐ寝ることにした。実は<肉アレルギー>による発疹もひどくなって、腕の方までぶつぶつと広がってきていた。腿の方は<盛り>を過ぎたものの、どろんと熱を帯びた感じで、ズボンとこすれたりすると痛い。これが不機嫌さに拍車をかけていたことも否定できないかもしれない。